世間の人は、苦手な人と関わるとき、どう対処しているのだろう。
「発言しなよ。発言しないひとは傍観者だよ。」
心臓がキュッと縮こまるのを感じる。いきなりかけられた言葉にどう対処していいか分からず、向かいに座っている同期の方を見ることができない。
「…すみません」
なんとかその一言を絞り出し、(あぁ、ついに言われたか。)と他人事のように頭の片隅で考える。
1月に入ってからの自分は、整備の現場には出ず、弊社の教育センターで飛行機に関する専門的知識の座学を受けている。一緒に教育を受けているのは、自分が所属する「整備士の国家資格を取得するために集中的に勉強するコース」的なコースの同期だ。普段、この同期達とは配属先が別なのでほとんど関わることはない。休憩室ですれ違ったときに、「おつかれ」と挨拶をする程度だ。
正直言って、自分はこの10人少しの同期たちの大半が苦手である。軽薄な人、高圧的な人、グループに合わせる人、自己主張が強い人、なぜか自分のことを嫌っている人。関わりたくない人間の見本市だ。
少しだが、仲のいい同期もいる。しかし大半の同期とは関わり合いになりたくない。
座学はグループワークで行われ、教官は初日に「グループで話し合ってワイワイやりましょう」と地獄のようなことを言っていた。グループワークでは自分以外のメンバーは話を進めていくが、自分には話を振らない。自分も極力話したくないので、これ幸いと話しあう声を聞きながら資料を読む。そんな毎日が続いていた。
そんな均衡を打ち破ったのが、
「発言しなよ。発言しないひとは傍観者だよ。」
である。
確かに、客観的に見ると同じコースの同期というグループの中で、浮いているのは自分だ。グループワークで発言せず黙って資料を見ているというのは、世間一般的にアウトである。何か対策を考えなければならない。
帰宅後、湯舟に浸かりながら「あの同期たちと関わりたくない。」という自分の気持ちを深堀りしてみる。
自分はあの同期たちと関わって、心に傷を負うことを心配しているのだ。話しかけて無視される。何言ってんだコイツという空気を出される。蚊帳の外。言葉というナイフ。空気というナイフ。態度というナイフで心を刺される。
傷を負いたくない、だから関わらない。
それもひとつの有効な対処法だと思う。わざわざ合わない人間と関わる必要はない。
しかし自分はこれから、彼らと定期的に会って一緒に教育を受け、最後には一緒に国家試験を受けなければならないのである。関わらないわけにはいかない。
だから考えた。「素の自分」で彼らに接するのではなく「あの同期達に合わせてコミュニケーションを取って一緒に勉強ができる自分」を演じればいいのだ。「素の自分」の上から「演じた自分」という厚い膜を被るイメージ。
そうすれば、たとえ「演じた自分」を傷つけられたところで「素の自分」には何のダメージもない。陰口を叩かれたところで彼らが見ているのは「演じた自分」。「素の自分」ではない。
そう考えたところで気持ちの整理も付き、湯舟で温まった体を浴槽から出す。
しばらくこの生活が続くわけだが、これも何かの経験だと思って、楽しんで演じてみることにする。


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